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茂男がちゃんとした書斎を持ったのは1970年、多摩の家を改築したときである。この時の改築では、書庫三部屋、事務用のスタジオ付き書斎を設けた。慶応義塾大学を辞めて、執筆に専念しようと言う心意気がこの改築にはにじみ出ている。慶応義塾は1974年に辞任した。その年には、執筆に集中するため、伊豆天城山に山荘も建てている。
茂男の家 1970年 | 茂男の天城の山荘 | 茂男書斎 |
茂男は12人兄弟の三男(姉がいるから4人目)として生まれた。茂男の父親祐蔵は、静岡で菊池写場という写真館を経営していた。母親のつぎは茂男が四才のとき亡くなった。だから12人兄弟中には腹違いの弟や妹、継母の連れ子、養子もあって、全員が全く同じ血筋ではない。しかし、『寺町三丁目十一番地』にあるように、兄弟姉妹は同じ釜の飯を食い、助け合って暮らした。
茂男は永原一江と1958年に結婚して、今度は自分の家庭を持った。子どもは、鉄太(筆者)、光哉、光太の三男が授かった。一江は1991年に56才で急逝したが、茂男は、その後四人の孫に恵まれた。
静岡で兄弟たちと(茂男左から三人目) | 新婚の茂男と一江 | 茂男と鉄太と光哉 |
茂男と光哉、多摩の家で | 光太とくまたくん絵本製作中の茂男 | 初孫の鼓子と |
茂男は、青春時代を静岡(静岡商業学校)、東京の久我山(久我山工専)、いったん静岡に帰って(CIE進駐軍図書館に勤務)過ごしている。その後、慶応義塾に通うため再度上京し、大田区大森に下宿した。久我山では学寮だったが、大森では増井さんという実業家宅に下宿した。大森には児童文学者の村岡花子さんがいて、茂男は彼女の道雄文庫に出入りした。1957年アメリカ留学から帰ると、今度は石井桃子さんのかつら文庫にも出入りした。そういう場所で、茂男はアメリカ仕込みのストーリテリングをしてみせたと言う。
1958年、茂男、かつら文庫で | 石井桃子と茂男、多摩の家で |
茂男は、米国政府のフルブライト奨学金で留学している。キャンザス大学でオリエンテーションを済ますと、オハイオ州ケース・ウエスタン・リザーブ大学図書館学大学院に入っている。修士号を取ると、今度はニューヨーク州公共図書館に勤めた。そうやって計3年をアメリカで過ごして帰国した。
しかし、茂男は米国で勉強ばかりしていた訳ではないようだ。ニューヨーク時代の写真には、親密そうに女性と肩を組んでいるものもある。「プエルトリコ出身のお金持ちのお嬢さんでね」と聞いた覚えがある。
アメリカに残るという選択も考えたことがあったに違いない。
留学時代、米国の図書館で | 留学時代、米国の図書館で2 |
茂男は、50年近い児童書のキャリアの中で、たくさんの作家、編集者、画家、図書館員などの同僚たちと仕事をした。留学やIBBY国際児童図書評議会の活動を通して、海外の作家にも知己が多かった。石井桃子さん、瀬田貞二さん、松居直さんらの先輩にも恵まれ、赤羽末吉さん、長新太さん、堀内誠一さんら画家とも本を出した。教え子にも活躍中の作家や翻訳家がいる。
茂男の書庫には、そうした仲間から贈られたサイン入りの本が今でもたくさん眠っている。
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茂男は旅が好きだった。会議やセミナーを兼ねてのことが多かったが、ふと思い立って、一江と二人で香港やバンクーバーを旅したようなこともあった。アメリカやヨーロッパはほぼ全土、革命前のイラン、中東、旧ソ連、中国、フィリピン、ネパール、タイ、中南米も訪れた。国内で好きだったのは、伊豆や奈良、北海道や尾道など、とりわけ春や初夏の旅が好きだった。
茂男が「辛かった」と言っていたのは、1962年、占領下の沖縄への旅だった。
逆に、最も気楽だったのは、故郷静岡の焼津に、幼なじみたちと魚を食べに行った小旅行や、気の置けない仲間とのゴルフ旅行だったのではないか。
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